忠義一筋!人質時代から天下人まで、ずっと徳川家康を支え続けた天野康景・前編【どうする家康】 (5/8ページ)
この「どちへんなき」は「どちらへんでもない」つまり偏りがない公正さや性格が極端でない穏やかさを示したもの。やさしい高力と、怖い作左衛門の間に立ってバランスをとっていたことがうかがわれます。
やがて家康が遠江国・駿河国と勢力を東へ広げると高力や作左衛門もそれに従い、康景は三河国を任されるようになりました。
勝ったり負けたり戦歴を重ねるその後も永禄12年(1569年)に天方城(現:静岡県周智郡森町)攻めで榊原康政(さかきばら やすまさ)・大久保忠隣(おおくぼ ただちか)らと共に武功を立てます。
天方城攻めでは首級を上げる活躍を見せたものの、返り討ちにあったのか手傷を負ってしまいました。
続く元亀元年(1570)6月28日、姉川の合戦では加藤喜助正次(かとう きすけまさつぐ)と共に朝倉景健(あさくら かげたけ)の軍勢に勝利。激しい戦闘の結果、両軍が流した血によって川面が赤く染まったと言います。
しかし勝利の美酒に酔えば敗北の苦杯をなめることもあるのが武門の習い。元亀3年(1573年)12月22日、三方ヶ原の合戦では武田信玄(たけだ しんげん)の軍勢に惨敗。