見守るとはどういうことか 宮本武蔵は細川家をどのように見守ったか (2/7ページ)

心に残る家族葬

できるなら、その行列が行き交う大通りの目立つところに葬ってくれ…と語ったということで、甲冑(かっちゅう)、そして六具(ろくぐ、胴・籠手(こて、上腕部から手の甲までを守る)・袖・脇楯(わいだて、体の右に当て、体と鎧の隙間を守る)・脛楯(はいだて、大腿部を守る)・脛当(すねあて、脛を守る)の6つでひと揃いの武具)で身を固めた完全武装の格好で、立ったままの姿で葬られた。更に、今日の熊本市と菊池郡大津町を結ぶ主要道である大津(おおづ)街道に面した場所に、「兵法天下一/新免(しんめん)武蔵居士石塔/正保二 乙酉 年五月十九日」と正面に刻まれた墓に葬られ、慶応3(1867)年の大政奉還によって、参勤交代が廃止になるまで、細川家の参勤交代を見守り続けていたと伝えられる人物がいる。それは剣豪として名高い、宮本武蔵(1584〜1645)だ。

「東の武蔵塚」とも呼ばれるこの武蔵の墓は現在、二本の刀を手にした武蔵のブロンズ像や、遺書とも言える自身の信条を死の7日前に記した「獨行道(どっこうどう)」(1645年)の自筆を刻んだ記念碑が建てられ、美しい日本庭園や茶室が整えられた「武蔵塚公園」(熊本市北区龍田弓削1丁目)の中で、大切に祀られている。とはいえ、武蔵の死後、天下泰平の徳川の世に入った頃には、若者盛りの武蔵が技を磨き、活躍した戦国時代において主流となった、接近戦による一対一の戦いの「本質」や「心」は忘れ去られる一方だったという。つまりそれは、単なる「勝ち負け」を決める行為ではなく、絶対に勝たねばならなかった。つまり勝つことで命を長らえることができるばかりではなく、たとえ生き延びられたとしても、「負けた」ことが「もののふ」として「生きること」の社会的な死を意味するものであった。こうした苛烈な現実が「リアル」だった頃とは異なり、技の「型」の美しさや、当時と比べれば抽象的かつ曖昧、そして美化された「精神論」が剣術の世界の主流になってしまったのだ。

そうした中、埋葬後に松や杉が植えられ、「武蔵山」とも称されていた、大体1〜2反(約300〜600坪)ほどの塚周辺は、「武蔵」の存在や戦いそのもののありようが忘れ去られていたことと連動していたのだろう。一般の人々の立ち入り制限が解除された。すると近在の人々は、鬱蒼とした木々を伐採した。

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