見守るとはどういうことか 宮本武蔵は細川家をどのように見守ったか (5/7ページ)
この書は江戸時代から現在に至るまで、日本国内のみならず、昭和49(1974)年に英訳本、“A Book of Five Rings”が出版されたことをきっかけに、フランス語・ドイツ語・スペイン語・ロシア語・中国語などにも翻訳され、世界中の人々に「武士(もののふ)」の心や生き方を示してきた。
武蔵と同時代を生き、ひと時代を築いた剣豪に、大和國柳生庄(現・奈良市)の柳生宗矩(やぎゅうむねのり、1571〜1646)がいる。宗矩は徳川家の剣術指南、そして大目付役を務めるなど、自身が極めた剣の道をもって、江戸幕府で重要な地位を占めた。寛永13(1636)年には、当時65歳だった宗矩は大名となり、「柳生藩」の藩主となった。そして1万2千500石の所領を得るほどまで上り詰めた。
その同時期、寛永14(1637)年、肥前国島原(現・長崎県島原市)と肥後国天草(現・熊本県天草市)のキリシタン一揆で知られる、島原の乱が勃発した。それは藩内で抑えることが到底不可能な状況となっていた。当時54歳だった武蔵は、寛永3(1626)年頃から養子の宮本伊織(いおり、1612〜1678)が仕えていた、播磨国明石(現・兵庫県明石市)から小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に移封(いほう、国替え)された小笠原忠真(ただざね、1596〜1667)の命を受け、共に鎮圧に向かった。30歳半ばから40歳ごろまで、武蔵は播州明石で小笠原家の客分として仕えていたものの、小倉移封を嫌い、一旦小笠原家から離れていた。そして尾張国(現・愛知県)や江戸で、兵法者としての仕官を求めていた。残念なことにそれは叶わず、伊織の元に行くことを決めたという事情だっただけに、乱の制圧に向かう武蔵は、必ずしも晴れやか、或いは勇ましい気持ちではなかったと推察される。
しかも乱が平定されるまで、およそ5ヶ月もかかった。それは、一揆を起こしたキリシタンたちの結束心が固かったことに反し、「いくさ」の時代から時を経た侍たちの気の緩み、そして実践的な訓練や技量そのものの不足があったためだと考えられている。