見守るとはどういうことか 宮本武蔵は細川家をどのように見守ったか (6/7ページ)
■成り上がったあとに訪れた宮本武蔵のターニングポイント
武蔵自身が17歳の時、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際、養父で当理流(とうりりゅう)兵法を唱えた美作国の武人・新免無二(しんめんむに、生没年不明)と共に当初は、主君の新免宗貫(むねつら、生没年不明)に従って西軍(石田三成方)で戦った。しかし戦いに敗れ、九州で挙兵した東軍(徳川家康方)の黒田孝高(よしたか、1546〜1604)を頼り、豊前国の中津(現・大分県中津市)に下った。武蔵たちにとって幸運だったのは、孝高は石垣原(いしがきばる、現・大分県別府市)の戦いで勝利を収めるなど、現在の北部九州地域で大きな存在感を示していた。最終的に東軍の勝利に終わった戦いの後、武蔵は黒田家に仕えることを選ばず、武者修行の旅に出るべく、京都へ旅立った。その後、33歳になった慶長19(1614)年、武蔵は徳川方で、大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも参戦した。このように、「偶然」または「みんな、そうだ」と言われればそれまでだが、時代の空気に影響、或いは翻弄されたことが、武蔵自身の剣術の上達を強く後押しした事実は否めない。しかし島原の乱において武蔵は、天草勢の投石を脛に受け、思わぬ大怪我をしたと言われている。
それが天下無敵の「武人」として生きてきた、武蔵のターニングポイントとなったのだろうか。その2年後、寛永17(1640)年、57歳となっていた武蔵は、兵法好きで知られた熊本の細川忠利に客分として招かれることとなった。それは、もともと忠利が熊本へ移封となる前は、小倉藩の藩主だったことがきっかけだったと言われている。小倉藩の筆頭家老となっていた養子の伊織は4千石の俸禄を得ていたものの、武蔵は何の役職も得ることはなく、「堪忍料」としてわずか3百石を得るのみだった。とはいえ武蔵は、翌年の2月には『兵法三十五箇条』を記し、忠利に献上した。残念なことにその翌月に、忠利は亡くなってしまった。短い間だったが、武蔵は療養のために温泉に滞在していた忠利のお供をしたり、正月の謡(うた)い初(ぞ)めに出席したりするなど、忠利と剣術以外での交流の時も持っていたという。
その後の武蔵は、藩士たちに剣術を教えたり、連歌・茶の湯・書画・細工物をつくるなどの文芸活動を行なったりしていた。