見守るとはどういうことか 宮本武蔵は細川家をどのように見守ったか (3/7ページ)
その結果、牛や馬や人々が雑多に行き交うようになり、墓の威厳が失われてしまった。それを憂慮した武蔵の弟子の末裔たちが寛政(1789〜1801年)の頃、奉行所に訴えた。それ以後は人馬の侵入を制限させ、樹木を植え直し、埋葬当時の様子を再現させたという。もしその努力がなされなかったとしたら…「東の武蔵塚」は荒廃し、今日まで存在していなかったかもしれない。
■宮本武蔵の墓は東の武蔵塚以外に西の武蔵塚や岡山県美作市にもある
そして「東」があれば当然、「西」もある。「西の武蔵塚」は、晩年の武蔵の弟子だった寺尾求馬助(もとめのすけ、1621〜1688)一族の墓所(熊本市西区島崎7丁目)内にある、「貞岳玄信居士」と刻まれた自然石のことだ。若い頃の武蔵は剣術修行のために諸国を漫遊し、多くの人々と戦ってきた。特に、慶長8(1603)年の江戸幕府成立当時、敗れた西軍側についていた大名の家は、取り潰しに遭ったり、石高を減らされたりした。それに伴い、多くの侍が浪人として世に放り出された。食い扶持を失った彼らは、新たな主君を求める必要がある。そこで今日の「シューカツ」ではないが、剣の達人として名の通った武蔵に勝ったという、仕官に有利な「スキル」や「アピールポイント」、「経験」…を自分のものとしたい浪人たちから、繰り返し狙われていたという。それゆえ死後もなお、武蔵に恨みを抱いていた者は多く存在していた。そうした人々に墓所を荒らされる危険があるとして、「東」には太刀だけを埋め、「西」に遺体を埋葬した。しかも「武蔵の墓」と気づかれないように、生涯独身だった武蔵だったが、先の名前の左側に「心月清円信女」という架空の人物の名前も彫ったという。
さらに、かつては熊本藩主で、武蔵を迎え入れた細川家の菩提寺だった泰勝寺(たいしょうじ)の跡地で、現在の「立田(たつた)自然公園」(熊本市中央区黒髪4丁目)内に残されている、五輪塔の「宮本武蔵供養塔」こそが武蔵の墓だという説もある。