東京都墨田区にある業平橋の由来となった歌人・在原業平を調べてみた (5/6ページ)
私が想う人は無事でいるかどうかと)
と隅田川での舟遊び、または京に上ろうとしていた折に業平が歌を詠む中、舷(げん、船・舟の側面)から上半身を乗り出してしまった。すると舟が傾いてしまい、或いは、舟そのものが古く、壊れていたためか、舟が転覆してしまった。いずれにせよ、業平には水泳の心得がなかったことから、溺れ死んでしまった。そこで里人たちは業平の死を悼み、船形の塚を立てて葬ったとするものだ。
■業平橋が在原業平を祀った塚とは考えづらい
業平がその言い伝え通り、今日の隅田川、またはその支流の大横川または北十間川(きたじゅっけんがわ)で亡くなったか否かは不明だが、業平は大和国石上(いそのかみ、現・奈良県天理市)に所在した在原寺(ありわらでら)に葬られたという言い伝えがある。そこで歌人で後醍醐天皇(1288〜1329)の妃でもあった二条為子(にじょういし、?〜1311または1312)が、
形ばかりその名残りし在原の昔の跡を見るぞ懐し
(形だけ、その名前だけが残っているが、全く静寂な在原寺を訪れると、業平の人生における、さまざまな栄華の跡を見るようで、心惹かれる思いがする)
と詠んでいるところから、隅田川の「業平塚」が「在原業平」を祀った塚だとは考えにくい。
考えられることとしては、隅田川やその支流の河川は氾濫が多かったことから、川のそばに水塚(みずつか)と呼ばれる、避難用の水防施設がつくられていた。それが死者を祀った「塚」と誤認されたのか。
それとも、今日の墨田区一帯は、江戸期に大規模な開発が行われたことから、古代の遺跡等があまり残っていないため、確定的なことは言えないが、古墳など、古くから存続し続けていた盛り土の名残があり、それが業平自身、または業平の手による水難者を葬った「塚」と結びつけられ、伝説として多くの人に語り継がれていったのではないか。
■最後に…
とはいえ、平安貴族はあまたおり、その中には当然、帝とつながる高貴な生まれの者はもちろんのこと、歌の名手も、女性との恋のさや当てが巧みだった、更には都から東国に下ってきた人物も多々いたはずである。そこで何故、「在原業平」なのか。