東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由 (2/8ページ)

心に残る家族葬

そして、「みだりに奉行所に立ち入るでない!今いる者どもに、3日以内に木綿1反を納めることを命じる!そうすれば地蔵の罪障も消滅し、手代も主人に言い訳が立つだろう」と告げた。

3日後、大量の木綿が山のように集まった。役人たちがそれらを調べたところ、手代の呉服屋の印がついたものも混じっていた。それをきっかけに、江戸市中を荒らし回っていた盗賊団が捕まることになった。忠相の「名裁き」が大評判となった。そして地蔵の罪も晴れ、縄を解かれないまま、放免された。程なくしてこの石地蔵は盗難除けにご利益があるということで、多くの人々の崇敬を集め、今日に至っている…

しかし忠相は、必ずしも「名奉行」だったわけではなかった。

■米価安が続き、当時の市民の生活は苦しかった

「米高間(こめたかま) 壱升弐合(いっしょうにごう)をかゆにたき 大岡くわれぬたつた越前」
(米が高くて、銭100文ではたった1升2合しか買えないのでおかゆにしたが、たくさん食べられず、たった1膳だけだ)

と、日本橋本船町(ほんふなちょう、現・中央区日本橋本町1丁目、室町1丁目)で米問屋を営んでいた豪商・高間伝兵衛(たかまでんべえ、生没年不明)と忠相をかけた、米の価格の高さに対する不満を訴えた狂歌がある。

この歌が生み出された当時の状況を概観しよう。忠相が南町奉行に就任中だった、1733(享保18)年正月26日の夜だった。2000人、または3〜4000人とも伝えられる暴徒が伝兵衛の店に押しかけ、大暴れした。これは江戸時代初の暴動、いわゆる「高間伝兵衛打ちこわし」事件だ。

その打ちこわしが起こったきっかけは、1722(享保7)年頃から江戸市中において、「米価安の諸色高」、すなわち、米価が下がっているにもかかわらず、それ以外の物価は高値のままであるという状況が続いていたことにある。当時は今日の日本や世界各国とは異なり、「米」の価格によって経済が決まっていたのだが、米を換金して生活していたのは、武士階級の者だった。そのため、地方の城下町のように、侍たちの需要に強く依存している地域であれば、米価安が諸色安に移行するのは容易だった。

「東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る