東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由 (6/8ページ)
それ以降も幕府の諸政策において、腐敗政治がはびこるなど、庶民にとってはいたたまれない状況が続いていた。それゆえ、忠相が「名奉行」で「あった」というよりもむしろ、「あって欲しい」というのが、江戸庶民の願いだった。その願いが昂じ、南蔵院の「しばられ地蔵」の由来と結びついた可能性がある。しかもこの話には実は、「元ネタ」がある。
それは、北宋時代の中国の政治家・包拯(ほう・じょう、999~1062)が行ったとされる裁判故事を集めた短編小説集、『龍圖公案(りゅうずこうあん)』(明代(1368~1644)末期に成立か)、通称『包公案(ほうこうあん)』第8巻74の「石碑」というものだ。
■元ネタの「包公案(ほうこうあん) 第8巻74 石碑」とは
浙江杭州府仁和県に柴勝(さい・しょう)という男がいた。まじめな人物で、その妻も舅や姑によく仕えていた。柴勝はある時両親に、商売に出るように勧められる。柴勝は両親にもらったお金で布を仕入れ、開封府に行った。そこで呉子琛(ご・しちん)の旅籠に泊まった。なかなか布が売れず、3日目に柴勝が酒を飲んで寝ていたところ、旅籠の近所に住んでいる夏日酷(か・じつこく)という男が部屋に忍び込み、布を盗んだ。目が覚めて布がないことに驚いた柴勝は呉子琛に尋ねたが、自分は何も知らないという。そこで柴勝は、包公に訴え出ることにした。
包公も呉子琛を尋問したが、答えは同じ。罪を犯した証拠もない。包公は2人を収監した後、部下の者を町の守護神に参拝させた。しかし、何の音沙汰もない。3日経つが、どうにもできないと包公は2人を板で10回打ちすえ、放免した。その間、盗人の夏日酷は布の先端と末端につけてあった印を塗りつぶし、自分の印をつけ、徽州の行商人・汪成(おう・せい)に売りつけていたのだが、そのことに気づいた者は誰もいなかった。
2人がいなくなってから包公は、役所の前の石碑を運び込ませ、誰が布を盗んだかを聞き出すことにしたと宣言した。それを聞いて、多くの人々が役所に集まってきた。包公は「石碑よ、このろくでなし!」と、20回、部下に鞭打たせた。それからまた、別の訴状を持ってきて、また石碑を鞭打たせた。それを3度繰り返すと、ますます人だかりが物凄くなった。