東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由 (4/8ページ)
それは即日許可され、諸物価を米価と引き合わせるために、強権的な方策が取られることとなった。
しかし、それから3年近く経過した、1726(享保11)年12月、呉服や酒・紙・炭・薪などは少しずつ、問屋相場価格は下がったものの、小売価格は以前のままだった。
さらに事態は悪くなっていった。米を換金して生活していた侍たちの多くが、借金返済不能になってしまった。そうなると、貸した側の町人たちは黙っていない。彼らは「体面」を重んじる侍たちの弱点を突く格好で、強硬に取り立てた。例えば、貸主本人ではなく、その妻子や後添いなどを武家屋敷に遣わして居座らせたり、お供行列に乱入させたりするなど、傍目に「みっともない」「恥ずかしい」行動を取らせたのである。
そうした光景があちこちで多く見られるようになったことに憂慮した忠相や諏訪は、町人の態度は無礼である。もしも侍に男女問わず、借金返済を強引に迫った場合は捕縛される。そしてそれが無宿者であれば牢屋に入れるべきであると、老中に上申した。
しかし老中らは、忠相たちの訴えを却下した。そのかわり、改めて、物価引き下げ、そして米価引き上げのための施策をとることとした。
米価が低いのは、米が過剰に出回っているためだ。それならば、市場に流通する米を減らせばいいということで、幕府は1729(享保14)年、米相場会所の設置や米問屋の区分に加え、積極的に米の買上、そして買い上げた米の備蓄を行った。
更に幕府は、上方から船で江戸に入ってくる「入津米(にゅうしんまい)」が米問屋以外の者たちも取り扱っていることも問題であるとして、その取り扱いを幕府指定の8軒の米問屋のみにするよう命じた。その米問屋の筆頭が、先に登場した、高間伝兵衛だったのだ。
■そんな中、享保の大飢饉で米の値段が高騰
伝兵衛は1731(享保16)年6月に、幕府の「米方(こめかた)役人」として大坂に遣わされ、大坂御金蔵(おかねぐら、現・大阪市中央区大阪城)の、金6万8500両、銀3631貫あまりを「軍資金」として米穀の買い入れを行った。そのおかげで、春先には米100俵(35石)あたり18両だったものが、翌年の春には26両、夏になると32両と上昇した。