東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由 (5/8ページ)
実は伝兵衛の行動は、幕府の買上米政策担当でもあった忠相の指示によるものだった。また忠相は同年4月、後々中止になったとはいえ、「20万石以上の大名には、いずれ強制的な買米命令が出される」というお触れが出た際、その「問い合わせ先」の筆頭に名前を連ねてもいた。
米を高値に保つ施策は、確かにうまくいった。しかし、1732(享保17)年の秋に、西日本一帯が大凶作となり、後にいう「享保の大飢饉」が発生した。餓死者は96万9900人にも及んだという。米価は「高値」を超え、高騰の一途を辿った。武士層にとっては「喜ばしい」ことであっても、ただでさえ逼迫していた江戸庶民の困窮は、ますます進んでいった。この年の12月20日に、人々は米価の引き下げを奉行所に訴え出た。しかし、当然、その訴えは却下された。翌年正月明けの17日、19日と訴えても却下され、事態はひどくなる一方だった。
■伝兵衛の店への打ちこわしが発生した
そんな中、町人たちの間に、「高間伝兵衛が米を買い占めたから、米の値段が高騰した!」といううわさが蔓延し、伝兵衛だけが「悪者」にされてしまう。20日には、伝兵衛の身柄を引き渡すように、多数の町人が奉行所に押しかけた。
さすがに忠相らも不穏な空気を察知し、23日に「御救米(おすくいまい)」の支給を決定したものの、もはや焼け石に水。しかも26日に忠相は町人たちが求めた、伝兵衛の身柄引き渡しを再度拒絶した。その結果、その夜に伝兵衛の店への打ちこわしが発生したのだ。
人々は伝兵衛の家財の一切合切を破壊し、大事な帳簿類は近在の大川へと投げ込んた。不幸中の幸いで、その夜、伝兵衛一家は故郷の上総に里帰りしていたため、命は無事だった。
最終的に打ちこわしの首謀者たちは5月に流罪とされ、「決着」はついたのだが、冒頭に挙げた狂歌ではないが、1733(享保18)年当時の米価は、銭100文で米がたった1升2合しか買えない。20年後の1752(宝暦2)年であれば、銭100文で米が3升買えた。それゆえ、わずかな米で1日にたった1膳だけ、お粥を食べるのがやっとだという状況だったのだ。