東京都葛飾区の南蔵院にあるしばられ地蔵がぐるぐる縛られている理由 (3/8ページ)

心に残る家族葬

しかし、侍たちの消費以上にあまたの町人たちが経済を支えていた江戸市中の場合は、そうはいかなかった。町人たちにとって、米価安は、生活費のうちの食費の割合低下を意味する。そうなると、それ以外のものの購買力の維持、或いは増大をもたらし、生活そのものの圧迫がつのる一方だったのだ。

■米価安への対応を求めて意見書を提出した

1723(享保8)年、幕府は江戸・京都・大坂(現・大阪府)の町奉行らに、「米価安の諸色高」への対応を求めた。その中で忠相は北町奉行の諏訪頼篤(よりあつ、1661~1753)と連名で、以下の意見書を提出した。

1. 炭・薪・醤油・塩などの日常品は、それを扱う問屋・仲買・小売に仲間を結成させ、毎月の相場書(そうばがき)を提出させる。そこで不意に高値がついた場合は、仲間に調査させる。

2. 浦賀奉行から江戸出入り廻船の荷物改(あらため)の報告書を、毎月提出させる。

3. 大坂(現・大阪府)からの荷物は、問屋から大坂町奉行へ積荷先を届けさせ、江戸宛ての分は、毎月江戸町奉行へ報告させる。そうすれば、相場を独占すべく荷物を隠し持つことは不可能になる。

4. 浦賀から江戸間の海上で、相場を独占すべく、廻船がたむろしているため、代官に取り締まらせる。

5. 商人たちが自分の取り扱う品以外も、利益を見込んで買いあさっている。そのため、商品の買い手が増え、値段が高くなっている。そうなると市場が狂うため、取り扱い商人を定め、組合をつくらせて商売をさせる。

6. 問屋以外でも荷物が取り扱われていることから、想定外の諸色値段の高騰を招いている。そのため、問屋以外での荷物の取り扱いを禁止する。

これらのねらいは、商人仲間をつくらせ、問屋を限定し、それを幕府が統制することで、相場を管理しようとするものだった。そうすれば、米の値段と諸色の値段とが自然と釣り合うはずだと、忠相らは「楽観的」に考えていた。

■米の流通量をコントロールしようとした幕府

1724(享保9)年2月、幕府は物価引き下げのお触れを発した。それを受けて忠相らは、明確な理由なく高値で商売する者には、罰金を科していいかを幕府中枢に問い合わせた。

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