「どうする家康」武田勝頼、見事なり…え?第22回放送「設楽原の戦い」振り返り (6/7ページ)

Japaaan

東京国立博物館 蔵「長篠合戦図屏風」

山縣衆は味方左の方へ廻り敵の柵の木いはざる右の方へおし出し、うしろよりかゝるべきとはたらくを、家康衆みしり、大久保七郎右衛門てうのはの差物をさし、大久保二郎右衛門金のつりかゞみ(つりがね?)のさし物にて、兄弟と名乗て山縣三郎兵衛衆の、小菅五郎兵衛、廣瀬郷左衛門、三科傳右衛門此三人と詞をかわし、追入おひ出し九度のせり合あり、九度めに三科も小菅も手負引のく、其上山縣三郎兵衛くらの前輪のはずれを鉄砲にて後へ打ぬかれ則ち討死あるを山縣被官志村頸をあげて甲州へ帰る……

※『甲陽軍鑑』巻第十九 五十二品「長篠合戦事」

劇中ではどこからどこまで走っていたのか、銃撃を受けて独り倒れた山県昌景。

火縄銃の有効射程が約50〜100メートルと言いますから、馬防柵からその範囲内で討死していないと不自然ですね。

「辺り一面、死屍累々」という画面映えを優先した結果でしょうが、そういうリアリティに欠ける描写は、どうしても興が醒めてしまいます。

まぁ細かいことは脇において、山県昌景の最期について『甲陽軍鑑』では上の如く書かれていました。

厄介な馬防柵を回りこもうとした山県勢は大久保忠世(演:小手伸也)・大久保忠佐(ただすけ)兄弟と乱戦になります。

両軍譲らず押して押されて九度にもわたる激闘の末、山県昌景は銃弾に斃れてしまいました。

すると山県家臣の志村貞盈(しむら さだみつ)が、主君の首を敵に奪われまいと掻き切り、甲斐国まで持ち帰ったということです。

他にも勝頼を逃がすために殿軍を務めた内藤昌秀(ないとう まさひで)・馬場信春(ばば のぶはる)・笠井高利(かさい たかとし)ほか、名将たちの最期が割愛されたのは残念でしたね。

ともあれ何やかんやで設楽原の合戦は終結。これからの戦はゼニがモノを言うのだ、と高笑いする羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)。現代にも通じる嫌な感じすね。

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