「どうする家康」ヒゲを生やして、貫禄が出てきた?第31回放送「史上最大の決戦」振り返り (3/6ページ)

Japaaan

岡田重孝(おかだ しげたか)

生年不詳~天正12年(1584年)3月6日没

元は信長の馬廻として仕え、天正元年(1573年)の朝倉義景(あさくら よしかげ)追討などに武功を立てました。

本能寺の変後に信雄付きの家老となり、天正11年(1583年)に家督を継ぎます。

その頃から津田宗及(つだ そうぎゅう)の茶会に同席するなど秀吉とは親しくなっていたそうです。

粛清に際して重孝を斬った太刀は岡田切(銘は吉房)として現代に伝わっています。

津川義冬(つがわ よしふゆ)

生年不詳~天正12年(1584年)3月6日没

父は尾張の守護大名・斯波義統(しば よしむね)。信長に仕える中で器量を見込まれ、信雄の家老を任じられます。

信雄の伊勢国平定に尽力し、天正4年(1576年)には伊勢の守護大名であった北畠具教(きたばたけ とものり)らの粛清に関与。本能寺の変後は松ヶ島城主として南方の奉行を務めました。

やはり茶の湯を通じて秀吉と親密になり、ついには粛清されてしまったのです。

以上の三名について、実際には内通しておらず単なる噂のみで処刑してしまい、信雄は戦う前から自ら力を削いでしまったとも言われます。

……信雄忽に秀吉の姦計に陥り。其家長ども黨與して。我をかたぶけんと計るものぞと大に怒り。たばかりて家長三人までを誅したり……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「秀吉将伐信雄」

かくしてまんまと秀吉の術中にはまった信雄たち。しかしもう後には引けなくなってしまったのでした。

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