羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】 (6/9ページ)
信康死後、浜松に迎えられるが……
……かくても猶重次が許にぞ、ひとゝせならせ玉ひける。三郎殿うせ給ひて後は、徳川殿此人のましますを、頼もしき事に思召す……
※『藩翰譜』第一 越前
しかし家康の意志は固く、と言うよりよほど築山殿が恐ろしかったようで、於義丸たちが浜松に迎えられることはありませんでした。
「まったく、父上は頑固よなぁ……」
何とか於義丸を家康の元へ迎え入れさせたい信康でしたが、そうこうの内に天正7年(1579年)に築山殿事件が発生。
信康と築山殿は、武田勝頼(たけだ かつより)と内通していた容疑で処刑されてしまったのです。
家康としては徳川家の後継者として立派に成長していた嫡男を喪い、途方に暮れる思いでした。
「……あぁそう言えば、男児ならもう一人いたっけな」
この期に及んで家康は、思い出したかのように於義丸を浜松城へ呼び出します。怖い築山殿がいなくなったので、もう遠慮は要らなくなったのでしょう。