羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】 (7/9ページ)
「あぁ、母親の方も来てよいぞ」
於義丸と一緒に於古茶も招かれましたが、この時すでに寵愛は西郷局(さいごうのつぼね。於愛の方)に移っており、この年に三男の長丸(ちょうまる。徳川秀忠)を生ませていました。何なら翌天正8年(1580年)には四男の福松(ふくまつ。松平忠吉)も生まれます。
長丸に福松……於義丸との名づけに、愛情格差を感じてしまいますね。可哀想に……。
しかし嫡男の長丸がいるなら、もう於義丸は要らないんじゃ?と思うかも知れません。当時は乳幼児の死亡率が高く、スペアがあるに越したことはないのです。
要するに「長丸が無事に育つまで、保険として養っておく」意図が透けて見えます。さすが「我らが神の君」、あらゆるリスクに対して万全の備えを欠かしません。
人質に異父弟を差し出そうとするが……
……天正十二年冬、豊臣秀吉北畠殿につきて、御子一人、養君とし奉るべきよしを申さる、徳川殿異父同母の御弟、三郎四郎殿をのぼせ給ふべしとありしに、御母上ゆるさせ給はねば、力なく、於義丸殿のぼらせ玉ふべきに定り、この年十二月の末、大坂尓趣かせ玉ふ……
※『藩翰譜』第一 越前
そうこうの内に歳月は流れて天正12年(1584年)、於義丸は11歳になっていました。
もうすぐ元服かな。とりあえず後継者候補を確保できれば、それなりの体裁は整うな……なんて思っていた矢先に、秀吉から養子縁組の申し入れです。