「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】 (4/7ページ)
この慣習は、やがて朝鮮半島を経て倭国にも伝わります。日本では、4世紀頃から巨大な前方後円墳が造営され、これも寿陵の一種と考えられています。
被葬者は自身の長寿と子孫繁栄を願い、陵を造る人々は被葬者の庇護による平安を求めたのです。
この考えは、仏教が伝来した飛鳥時代にも続きました。高齢で重祚した斉明大王は、誰よりも長寿を願ったことでしょう。そのため、彼女は寿陵を造る際に、自身の好みを強く反映したと考えられます。それが益田岩船であり、牽牛子塚古墳でした。
これまで述べてきたように、斉明が造営した飛鳥京は「石」と「水」の都でした。特に斉明がこだわったのは「石」で、宮殿の石敷きや石垣、苑池の護岸、石造物などに多く用いられています。そんな斉明だからこそ、自らの陵墓にも巨岩を用いることを望んだのではないでしょうか。
家族愛にあふれた女帝の墓域益田岩船が存在する丘陵には、岩肌が露出している場所があり、この山には石材が豊富であることがわかります。
その岩は、花崗岩の一種である飛鳥石でした。そう、斉明が飛鳥京の守護のために造った両槻宮の石垣に用いたあの石です。
すなわち、益田岩船は斉明大王の寿陵(じゅりょう)の石室として、この山で加工作業が行われたものの、工事途中で2つの穴のうち片方に亀裂が生じてしまい、ここに放棄されたものでした。これは、岩船の2つの穴のうち、片方には水が溜まっているが、もう片方には溜まっていないことからもわかります。