「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】 (5/7ページ)
そもそも花崗岩の飛鳥石は、硬く耐久性に優れた高品質の石です。そのため、加工が難しく、作業を行った石工たちは苦労したことでしょう。
しかし、斉明が飛鳥石を好んでいたことを知っていた石工たちは、女帝の望みに応えるべく、懸命に加工作業に励んだと思われます。
斉明はおそらく現地を訪れ、石工たちの作業を視察していたと推測されます。そして、石工から益田岩船についてこれ以上の作業ができないとの説明を受け、さぞ失望したことでしょう。
益田岩船の2つの穴は、明らかに斉明ともう一人の人物を合葬する石槨であり、斉明の意図により設計されたことは間違いありません。
『日本書紀』によれば、斉明は658年の遺言で、寵愛していた皇孫の健王(天智大王の子)が8歳で亡くなった際、将来自分と合葬するよう命じました。したがって、その人物は健王であったと考えられます。
その遺言から3年後の661年、斉明は九州の地で崩御しました。亡骸は皇太子であった中大兄皇子(後の天智大王)に付き添われて飛鳥京に戻り、殯(もがり)の儀式が行われました。