政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】 (2/8ページ)
それに呼応するかのように、豊臣秀頼も内大臣に任ぜられます。
武家としては、右大臣である家康と内大臣である秀頼という序列が形成されました。
しかし、形式上は秀頼の上位に立ったとはいえ、家康はこの体制にまったく安心していなかったのです。
なぜなら、秀頼の内大臣就任は、近い将来、朝廷から秀頼に関白宣下が下される可能性があるという、極めて微妙な段階に入っていたからです。
たしかに、時代はすでに徳川を中心に動き始めていました。
しかし、朝廷の立場からすれば、関白職を世襲する資格を持つ豊臣家こそが、武家の頂点にふさわしいと考えられていたのです。もし秀頼が関白に就任すれば、官位の序列において家康を凌ぐことになり、徳川政権を盤石なものにしたい家康にとっては、極めて厄介な事態となるおそれがありました。
さらにこの当時、加藤清正や福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名たちは健在でした。彼らの多くは1600年の関ヶ原の戦いでは家康に味方したものの、豊臣家への忠誠心を完全には失っておらず、その思いは根強く残っていました。