政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】 (8/8ページ)

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豊臣秀吉像(狩野光信画)wikipedia

それは、小柄だった秀吉の子でありながら、180cmを超える堂々たる体躯を持ち、物事に動じることのない、気品あふれる見事な立ち居振る舞いを見せた秀頼の姿にありました。付き従っていた豊臣恩顧の大名たちも、彼に憧憬の眼差しを向けていたといいます。

そのように立派に成長した秀頼の姿を目の当たりにして、家康は彼を徳川家にとって極めて危険な存在と見なしたのでしょう。その懸念は、会見直後に「三ヶ条の条書」と呼ばれる大名誓紙を、豊臣家を除くすべての大名から提出させたことにも表れているのです。

そして、夫・秀頼と祖父・家康の二条城での会見は、千姫にとって人生最初の悲劇へと巻き込まれていくきっかけとなった、といえるのではないでしょうか。

それでは[前編]はここまで。[中編]では、大坂の陣での千姫と秀頼の別れをお話ししましょう。

※参考文献:福田千鶴著 『豊臣秀頼』 吉川弘文館

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