政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】 (3/8ページ)

Japaaan

そのため、もし秀頼が関白となれば、彼らは徳川家よりも豊臣家を重んじ、秀頼のもとで反徳川的な勢力を築く可能性が高かったのです。

豊臣秀頼像(養源院蔵)wikipedia

こうした状況の中で、家康にとっての大きな課題は、秀頼とその母・淀殿をいかに懐柔するかという点でした。

そこで家康が考えた策が、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせることだったのです。

仲睦まじかった千姫と秀頼

1603年7月28日、大坂城において、11歳の豊臣秀頼と7歳の千姫の婚礼の儀が執り行われました。この日取りは、千姫に付き添って上洛した母・江(ごう)と、淀殿が相談して決めたものとされています。

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