政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】 (7/8ページ)
ただし、この当時も朝廷は秀頼を摂家豊臣家の後継者と見なしており、豊臣家中では、家康との会見が徳川家への臣従につながりかねないとして、反対する声も多かったといいます。
しかし、徳川家の実力を認めていた加藤清正や浅野幸長ら、豊臣家恩顧の大名たちの取り成しもあり、会見はついに実現しました。
3月28日、二条城に到着した秀頼を、家康は庭上まで出向き迎えました。これよりは「互いの御礼あるべし」と、対等の礼をしようと提案する家康に対し、秀頼は固辞したのです。
秀頼は、淀殿とは異なり、現在の豊臣家の立場をよくわきまえていたのでしょう。相手は自分よりはるかに年長で、官位も上。しかも、愛する妻・千姫の祖父、すなわち大舅にあたる人物です。
もしかしたら、普段から家康の人となりを千姫が秀忠に伝えていた可能性もあるでしょう。こうして、家康が上座につく形での会見となりました。
その後、秀頼は豊国社を参詣し、大坂城へと戻りました。大坂や京都では、公家・武士・庶民を問わず、この会見が無事に終わったことを喜んだと伝えられています。
しかし、この二条城での会見が、家康に豊臣家討伐を決意させるきっかけとなった、という説があります。