政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【前編】 (6/8ページ)

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これを受けて、4日後の4月16日、家康は将軍職を千姫の父・秀忠に譲り、徳川家が将軍職を世襲することを天下に示しました。

徳川秀忠像(松平西福寺蔵)wikipedia

しかし、秀忠は征夷大将軍に任じられたものの、官位は正二位内大臣にとどまり、正二位右大臣の秀頼には及びませんでした。

それでも、武家の頂点である将軍となった秀忠の権威を示すため、家康は高台院(おね・北政所)を通じて、秀頼に秀忠のいる伏見城へ出向くよう要請します。

ところが、これに対し淀殿は態度を硬化させ、徳川と豊臣の関係はさらに悪化していくのです。

この後、将軍職を退いた家康は大御所として駿府に在住。江戸の秀忠と協力して二元政治を行います。それは、秀忠が徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当するというものでした。

こうして諸大名を管理・監督しながら、秀忠は将軍就任と同時に将軍親衛隊として書院番・小姓組を創設し、軍事力の強化を図ります。

また、1610年には三河国で4万人を動員する大規模な巻狩りを行い、将軍の権威を示すなど、着々と幕藩体制の構築を進めていきます。

そして翌年の1611年、ついに家康と秀頼の面会が実現する日が訪れます。この年の3月、後陽成天皇が後水尾天皇に譲位した際、その即位に際して上洛した家康は、二条城での秀頼との会見を要請しました。

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