「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】 (6/7ページ)

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そして、意知の死を嬉しがるような落書や戯れ歌が流行したとも言われています。

このような風潮に対し、当時のオランダ商館長イサーク・ティチングは世界に書見を発しています。

そこには、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから生じた事件である。井の中の蛙のような幕府首脳陣の中で、田沼意知ただ一人が日本の将来を見据えていた。彼の死によって、日本が開国に向かう道は完全に閉ざされた」と。

彼は、田沼父子を快く思わない勢力が黒幕となり、佐野を使って意知を殺害させ、さらに反田沼の言論を煽ったことに確信を持っていたのでしょう。

このように「田沼たちを守る」と決意した家治は、その死もあって、結局は意次を守りきれませんでした。

意次の存在を徹底的に消し去った定信と治済

家治の死後、養子の家斉(一橋治済の長男)が11代将軍に就任します。これを機に松平定信と一橋治済は、意次の老中罷免を皮切りに、田沼派の一掃を断行します。

徳川家斉(Wikipedia)

意次は所領のうち2万石を没収され、大坂蔵屋敷の財産も没収、江戸屋敷の明け渡しも命じられました。その後、さらに所領を没収されたうえ蟄居を命じられ、2年後の1788年、失意のうちに江戸にて亡くなったのです。

田沼家は孫の龍助を藩主として、陸奥下村1万石に減封。

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