「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】 (3/8ページ)
これに反対した長屋王は翌729年、謀反の罪を着せられて自害に追い込まれている。このことから、旅人の大宰府赴任は長屋王排除に際し、旅人の存在が聖武天皇および藤原四兄弟にとって障害となるのを避けるためであったとする説もある。すなわち、軍事的実力を誇る旅人が長屋王側につけば厄介なことになると考えられた、というのである。
しかし、結果的に旅人は事件に直接関与せず、3年後には帰京して従二位に昇進した。ただし、太宰府在任中に催した「梅花の宴」(のちの元号「令和」の典拠となった宴)は、長屋王事件に対する一種の抗議であったとみる説もある。
このような旅人を父に持つ家持は、名門大伴氏の誇りと反骨精神を受け継ぎ、やがて朝廷を席巻する藤原仲麻呂を中心とする藤原氏に屈することなく、その生涯を歩むこととなったのである。
藤原仲麻呂に危険視され地方へ追われる大伴家持の朝廷における歩みを見てみよう。殿上人に列したのは、745年(天平17年)、27歳の時に従五位下に叙せられたのが始まりである。その後、宮内少輔や越中守に任ぜられて地方官へと転じ、従五位上に昇進している。