「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】 (6/8ページ)

Japaaan

大伴家持 (『三十六歌仙絵(個人蔵)』)Wikipedia

当時の天皇は、孝謙天皇から譲位を受けた淳仁天皇であったが、その下では太師(太政大臣)・藤原仲麻呂が絶対的な権力を握っていた。家持の京官復帰は、仲麻呂の意向なしには叶わなかったと考えられるが、家持はこの場でも反骨精神を示した。

763年(天平宝字7年)、家持は仲麻呂に対して、式家の藤原宿奈麻呂(良継)、石上宅嗣、佐伯今毛人の三人と共に暗殺計画を立案した。しかし密告により計画は露見し、家持は首謀者の疑いをかけられ捕えられた。この事件は、宿奈麻呂が単独犯行を主張したため、家持は罪を問われなかったものの、再び薩摩守に左遷された。

翌年、仲麻呂が孝謙上皇と争った「藤原仲麻呂の乱」で敗死・失脚すると、家持は薩摩守から大宰少弐に転じた

770年(神護景雲4年)9月、称徳天皇が崩御すると、家持は左中弁兼中務大輔として要職に就く。11月に光仁天皇が即位すると、式部大輔、左京大夫、衛門督など京官の要職や、上総・伊勢などの国守を歴任し、順調に出世を重ねた

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