「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】 (4/8ページ)

Japaaan

この間、少納言に任官し、帰京後の754年(天平勝宝6年)には兵部少輔、757年(天平勝宝9年)には兵部大輔に任じられ、孝謙天皇のもとで武門の貴族・大伴氏にふさわしく兵部省の次官を務めた。

孝謙天皇像(伝西大寺) Wikipedia

しかし、ここで家持は大規模な政争に巻き込まれる。それが757年(天平勝宝9年)に起きた「橘奈良麻呂の乱」である。

この乱は、光明皇后の後ろ盾を得て独裁色を強める藤原仲麻呂を追い落とそうとした橘奈良麻呂が、橘氏・大伴氏・佐伯氏らの諸族とともに企てたものだった。だが政争に敗れ、橘氏・大伴氏・佐伯氏をはじめ、反仲麻呂派と見なされた皇族・藤原南家・多治比氏ら多くが死刑や流刑などの処罰を受けた。

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