【べらぼう】史実、その後の二人は?歌麿から見捨てられた蔦重が決定的に欠けていたもの (5/8ページ)
養父の西村屋与八(西村まさ彦)だけだったら、誘われてもキッパリ断って終わりだったでしょう。
それこそ名前の位置が上だの下だの、歌麿にしてみれば瑣末なことでした。
※他の有名絵師が手がけた作品を見ると、確かに名前が上にくることが多いようです。
しかしそんな離間(仲を裂く計略)など関係なく、歌麿は蔦重を捨てて万次郎とやって行きたいと思ったのでした。
かつて蔦重の隣でワクワクしていた自分が、万次郎と一緒なら叶えられる。そんな期待から、蔦重との決別宣言が発せられたのでしょう。
【ネタバレ?】蔦重と歌麿、それぞれの晩年
「何があっても、俺だけはずっと隣にいる」と言っていたけど……。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより ©️NHK
かくして蔦重の元を去った歌麿。実際のところはどうだったのかと言うと……。
蔦重との蜜月期を過ぎた歌麿はあちこちの板元から引っ張りだことなり、寛政7〜8年(1795〜1796年)ごろには最大で40以上の板元と契約していたと言います。
こうなるともう、一点一点を丁寧に描くなんてやっていられません。言葉は悪いですが粗製濫造が目立つようになりました。弟子にも手伝わせて量産体制を構築していたことでしょう。
それでも歌麿の人気は衰えることなく、浮世絵界の権威となっていきます。