大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長(仲野太賀)が「天下一の補佐役」と称されていた理由【前編】 (5/9ページ)

Japaaan

この時期についても定かではありませんが、1573年(天正元年)、北近江の浅井長政を滅ぼした功績で秀吉が長浜城主となると、秀長が城代を務めたことは史実として確実です。

長浜城模擬天守(Wikipedia)

その後、秀吉が中国方面軍の軍団長となると、秀長もその麾下の重要な部将として播磨・但馬を転戦しました。1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が倒れると、秀吉本隊が畿内へ急行するのを支えるため、秀長は分隊を率いて鳥取城へ入ります。

秀吉が山崎の合戦で明智光秀に勝利できた背景には、「中国大返し」の奇策だけでなく、秀長が背後を固め、毛利勢などの追撃を抑えた活躍も大きかったとされています。そして、翌年の小牧・長久手の戦いの頃から、「羽柴秀長」と名乗るようになりました。

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