【豊臣兄弟!】天下人を支えた“最強の母”!秀吉・秀長を女手一つで育てた母・仲(坂井真紀)の生涯 (4/6ページ)

Japaaan

天下人の母となる

大徳寺蔵 大政所肖像(画像:Wikipedia)

そんな天正10年(1582年)に本能寺の変が発生。秀吉の主君であった織田信長が明智光秀の謀叛によって横死を遂げると、長浜城は明智方の阿閉貞征(あつじ さだゆき)に攻め込まれてしまいました。仲はおねと一緒に伊吹山麓の大吉寺へ非難し、事なきを得たと言います。

明智光秀を討伐し、織田政権の乗っ取りに成功した秀吉が新たな本拠地として大坂城を築くと、仲らは大坂へ移り住みました。

そして天正13年(1585年)7月11日に秀吉が関白に就任すると、仲は従一位という破格の叙位を受け、大政所(おおまんどころ)の称号を贈られます。

かくも大切にされてきた仲ですが、天正14年(1586年)9月に秀吉が以前から対立していた徳川家康に上洛を促す≒臣従せしめる際には、人質として徳川家へ送られます。

※先に人質(家康の正室)として送られていた旭(朝日姫)の見舞いという名目でした。

さすがの家康もここまでされては重い腰を上げざるを得ず、両雄の会見は無事に終了します。人質となっていた仲も一ヶ月程度で無事に解放されたのでした。

やがて天正18年(1590年)になると、秀吉が小田原北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げます。息子たち(秀吉・秀長)が天下統一の偉業を成し遂げた様子を、母親としてどのような心境で見守っていたのでしょうか。

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