『豊臣兄弟!』理不尽すぎる粛清…15歳の美少女・駒姫、罪なき処刑へ——「秀次事件」の悲劇 (4/9ページ)
もちろん、父・義光は幼さを理由に断るものの、強く要望され仕方なく「15歳になったら」と約束します。
文禄4年(1595)、15歳になった駒姫は、父と共に山形から京都まで出向き、秀次の屋敷である聚楽第に移ります。ところが、その後、突然夫になるはずだった豊臣秀次が、謀反の罪で切腹するという青天霹靂の出来事が起こるのでした。
秀吉秀次が突然「謀反の罪」に秀次は秀吉の養子となり、天正19(1591)年12月には関白職に就きます。けれど、そのわずか4年後、文禄4年(1595)7月15日、秀吉は秀次に対し切腹を命じます。
理由には諸説あります。
・淀君が男子を出産、実子(秀頼)ができ秀次の存在が疎ましくなった
・「秀次に謀反の動きあり」という情報が入った
・秀次は「殺生関白」と悪名が立つほど素行が悪かった
しかしながら、現在では、「秀次の謀反説・殺生関白説は後世の創作」「秀吉は切腹をさせるつもりはなかった」「秀次は潔白を証明するため切腹するも、政権を守るため『切腹して当然の謀反を起こした』ことにした」などの考察がされています。
いずれにしても、秀次の切腹に連座して前述の前野長康駒らは切腹、駒姫ほかの妻妾、侍女たちは処刑されることになったのです。
幼な子を含めた総勢39人が処刑
一説によると、駒姫は、京都に到着したばかりで秀次とはまだ夫婦関係になっておらず、再会もしていない状態だったそう。けれども処刑の対象になってしまったのです。