『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜藤堂高虎と井伊家が封じた西国大名の進軍路【後編】 (3/8ページ)

Japaaan

『関ヶ原合戦屏風』に描かれた井伊勢(Wikipedia)

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めによる天下統一ののち、家康は関東に移されます。この時、直政は上野・箕輪城12万石を与えられます。これは当時の徳川家臣団の中でも最大級の石高でした。

直政は、徳川家中で他の家臣たちに抜きん出て、出世街道を歩んでいきます。よく言われているのは、直政が家康の寵童であったということですが、それは何とも言えません。ただ事実としては、直政は戦場では勇猛果敢調略などの政治手段にも長けており、その総合的な才覚を家康が高く評価していたのは確かなようです。

そんな直政は、1602年(慶長7年)2月、関ケ原の戦いで受けた傷がもとで、佐和山城(15万石)にてその生涯を閉じます。折しも、新城・彦根城の築城が始まった頃でした。

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