【豊臣兄弟!】「本能寺の変」の伏線は“播磨侵攻”にあった?信長・秀吉・光秀を結ぶ四国政策の大誤算 (1/8ページ)
1576年(天正4年)、毛利輝元(濱正悟)・上杉謙信(工藤潤矢)・石山本願寺らを中心とする第三次織田信長包囲網が形成された。
これに対抗するため、信長は羽柴秀吉・秀長(仲野太賀)兄弟を播磨へ送り込む。その目的は、播磨を押さえることで毛利氏と石山本願寺を結ぶ陸海の連絡網を断ち、本願寺を孤立させることにあった。
しかし、海上交通の遮断は播磨攻略だけでは十分ではないと判断した信長は、四国で勢力を拡大する土佐の長宗我部元親と誼を通じ、瀬戸内海の主導権を毛利氏から奪い、海上交通を安定させようとした。
だがこの戦術が、やがて明智光秀(要潤)を追い詰め、本能寺の変を呼び寄せる一因となっていくのである。
織田信長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
中国攻めの一環として行われた四国政策第三次織田信長包囲網に対し、信長は羽柴秀吉を中国方面軍の司令官として播磨侵攻を命じた。一方で、畿内方面軍の司令官の明智光秀には、四国土佐を拠点とする長宗我部元親との外交を任せた。
信長は瀬戸内海北岸を秀吉に押さえさせ、土佐を統一して阿波に侵攻する元親と誼を通じて、四国における瀬戸内海側の安定を手に入れようと考えたのだ。