【豊臣兄弟!】「本能寺の変」の伏線は“播磨侵攻”にあった?信長・秀吉・光秀を結ぶ四国政策の大誤算 (3/8ページ)

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それゆえに信長は不安定な中国に対して、四国だけでも安定して味方に引き入れようと、長宗我部氏に対し宥和的な外交姿勢を打ち出したのだ。

明智光秀。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

長宗我部氏との交渉役に光秀が任じられたのは、光秀の家老である斎藤利三(さいとうとしみつ)の兄・石谷頼辰(いしがいよりとき)の妹が元親の正室であったことによる。信長は光秀のもつ斎藤・石谷ラインを使って、長宗我部氏に同盟を働きかけたのである。

『元親記』によると元親は信長から「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」との朱印状を与えられたとされる。また、荒木村重(トータス松本)が謀反した頃、元親の嫡男が元服したときに信長が烏帽子親となり、「信」の偏諱を与え、嫡男は信親と名乗った。このことからも、信長がいかに元親に気を使っていたかが伺えるのである。

播磨平定後に起きた四国政策の方針転換

信長から四国平定のお墨付きを貰った元親は、阿波から讃岐にまで勢力を拡大する。しかしその間に、信長は諸勢力による包囲網を切り崩していた。

1579年(天正7年)6月、別所長治の離反に呼応するように反旗を翻した丹波八上城の波多野秀治を討つと、同年9月には荒木村重の有岡城を陥落させた。

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