【豊臣兄弟!】実は本能寺の変の“黒幕級”だった?明智光秀(要潤)の右腕・斎藤利三(内藤剛志)の生涯 (8/10ページ)
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けれども、光秀は聞き入れずに全軍を山崎に集結して、羽柴軍を迎え撃つよう命じました。(「山崎の戦い」)
山崎が淀川に挟まれた幅の狭い地形のため、縦長になり進軍してくるであろう秀吉軍を迎え撃つ作戦でした。
本能寺の変から11日後、6月13日、山崎の地に到着した豊臣秀吉軍の数はおよそ40,000人で、明智軍は約16,000人。雨降りしきる中で始まった戦いは、短時間で勝負がつき、ここに明智光秀の短い天下は終わったのでした。
明智光秀は、夜更けに妻子がいる坂本城を目指すも、山科小栗栖にさしかかった時、落武者狩りに遭遇、竹薮から突然突き出された竹槍に刺され重傷を負い、その場で自刃して果てました。
斎藤利三は戦場を逃れて潜伏しつつ逃亡生活をするも、秀吉軍の捜査網により戦いからわずか4日後に捕縛されます。
そして、洛中を引き回された後に六条河原で斬首されました。利三の遺体と光秀の遺体は見せしめとして粟田口にさらされたそうです。
※『太閤記』の著者、小瀬甫庵は、このとき光秀が斎藤利三の提案を聞いて坂本城に戻って戦っていれば、違った展開になっていただろうと、利三を評価していたそう。