『豊臣兄弟!』わずか2歳で秀吉を天下人にした信長の嫡孫!三法師(織田秀信)が歩んだ数奇な生涯 (9/10ページ)
そして、秀頼の誕生と秀次の死。こうした動乱のなかで、秀信はつねに秀吉サイドにいたと考えられます。
そして1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いが勃発。秀信は豊臣家を守る立場から西軍に味方し、美濃・尾張を保つため岐阜城に籠城して多勢の東軍を相手に奮戦しました。
その戦い振りは凄まじく、激しい攻防のなか多くの家臣が討死し、秀信自身も自害しようとします。しかし、攻め手の池田輝政の説得で、ついに降伏しました。
徳川家康は当初は秀信を許さない方針を示すものの、福島正則(松崎優輝)が自らの武功と引き換えに助命を嘆願。しかし一命は救われたものの、美濃国13万石は改易処分となりました。
美濃を追われた秀信は、高野山での蟄居生活に入ります。そして関ケ原の戦いから5年後の1605年(慶長10年)5月、わずか26歳でその生涯を閉じました。一説には自害であったとも伝えられています。