『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る (3/7ページ)

Japaaan

(『信長公記』)

「その時」妙覚寺から二条城に移った織田信忠。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)

見事な戦いぶりを見せた信忠

信忠は、二条新御所ではどのような行動を取ったのでしょうか。

「織田家の当主として最後まで勇敢に戦った」……と記述している過去の史料がいくつかあります。

▪️「世子(信忠)はきわめて勇敢に戦い、鉄砲と矢によって幾つもの傷を受けた。ついに明智の多勢の軍勢が勝って(邸内に)入り、放火して多くの者が焼け死んだが、彼らに混じって世子もまた、その他身分のある武士や兵士たちもともに同じ最期を辿った」(ルイス・フロイス『日本史』)

▪️「最期を悟った信忠は、一番に切って出て向かってくる敵兵17、18人を切り伏せた。」(『総見院殿追善記』)

▪️「光秀軍から、屈強の兵数人が名乗って引き返し切って掛かってきた。これを見た信忠は、その真ん中に切って入り、常日頃から稽古していた兵法、古流・当流、秘伝の術、英傑一太刀までも奥儀を尽くして切り廻り、孫十郎を薙ぎ伏せ、清次、三右衛門の首を丁々と打ち落とした。」(『総見院殿追善記』)

しかしながら、「もはこれまで」と悟った信忠は、家臣の鎌田新介に切腹時の介錯を頼み、「切腹後、縁の板を外してその中へ遺骸を隠すよう」に指示して、26歳の最期を迎えました。

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