『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る (7/7ページ)

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「本能寺の変」や「山崎の戦い」にも参戦した利宗から「本能寺の変」の「物語」を聞いた甥・井上清左衛門が、それを関屋政春に話した……とのことです。

「そのとき」本能寺でまっさきに司令を出していたという斎藤利山。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)

信長を打ち損じた場合に「退路」を断つため?

「光秀ハ鳥羽ニヒカエテ」。

鳥羽にいた光秀は「朝本能寺の方角を見て、火の手が上がったことを確認し『すわ!本能寺は落ちたぞ!続け者ども!』と駆け出し、次はすでに家督を継いでいた織田信忠を討つために、妙覚寺へ急いだ……」という記述もあるそうです。

さらに、二条新御所に移った信忠を攻めた際は「鳥羽より二里を急いできたために、歩兵は間に合わないままに戦闘に突入したというようなことも記されているそう。

二里というと「一里=約3.9km」の二倍なので、約7.8km。車だと約25分ほどの距離ですが徒歩では約2時間ほどかかるようです。

なぜ、光秀は本能寺にはおらずに鳥羽にいたのか?の理由については『乙夜之書物』に記述はないよう。

けれども、「もし、本能寺で信長を討ち損じた場合、四国討伐のために軍を率いて大阪にいた三男・織田信孝(と、共にいた丹羽長秀)のもとに逃げるかもしれない。その時に通り道となる鳥羽に控えていた」という推測がされています。

『乙夜之書物』は、時の権力者におもねる目的ではなく兵法家による内密の覚え書きというところが注目されました。人数が少ないとはいえ伝聞ではあり、本能寺の変から約90年近く経たもので、一次史料とはされていませんが、非常に興味深いですね。

最後に…

さて、織田家信忠と明智光秀の“そのとき”と、京都・大徳寺で行われた壮大な信長の葬儀、信忠、光秀の最期はどのように描かれていくのでしょうか。

そして、今後誕生する「豊臣政権」までのプロセスは……目まぐるしいスピードで進んでいく今後の展開が楽しみですね。

参考:
明智光秀と斎藤利三 桐野作人
石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世 浅利尚民

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