『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る (5/7ページ)
(京都市右京区宇多野上ノ谷町)
安土城完成。勢揃いする織田ファミリー。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
本能寺にはいなかった明智光秀“そのとき”。
明智光秀(要潤)は6月2日未明、どこにいたのでしょうか。
「豊臣兄弟!」第27回のラストの紀行では、「光秀は実は本能寺にいなかった」とする『乙夜之書物(おとぎのしょもつ)』を取り上げていました。
この書物では、「光秀は本能寺襲撃の際には、京都の南・鳥羽にいた」と記されています。
鳥羽と本能寺は約7kmほど離れています。車だと約30分ほどかかる距離。なぜ、現場にはいなかったのでしょうか。
この史料『乙夜之書物』を記したのは「関屋政春(せきや・まさはる)」(慶長20年(1615年)生まれ)。加賀藩の「前田家」の家臣で、戦術や武士のあり方などを学ぶ兵学者でもあった人物です。
この『乙夜之書物』は、「実際に本能寺で戦った人物の証言」をもとに書かれているそう。
「伝聞」ではあるものの、「町の噂で」とか「知り合いの、知り合いの……そのまた知り合いから何となく聞いた」という話ではありません。
当事者から著者の関屋政春までに間に入った人間が少ないので、「信ぴょう性があるのでは」と評価されているそうです。