『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る (4/7ページ)
「此附近 二条殿址」の碑(京都市中京区両替町通御池上る東側)wiki
江戸時代・公家の文書に記された信忠の最期近年、本能寺の変ののち、公家が天皇に語った体験談を記した文書が、旧公爵近衛家の史料を所蔵する『陽明文庫』(※)で見つかっています。
その史料によると、妙心寺から二条御新造に移動した信忠が籠城するため、雅朝王が誠仁親王らを逃がしたときのこと。
「かゝるふうんにあふはちからなし」
「神めい仏た御まもりおはしまして、つゝかなく内裏へ還御なしまいらさせ給へ」
信忠は、「このような不運にあったのは力ないことだ」「神や仏が親王をお守りくださって、つつがなく内裏にお戻りなさるように」と伝えたといいます。
また、親王が御所をでるときは、明智側の兵士たちも皆頭を垂れたことなども記されているそうです。
100年前後たった文書で真偽のほどは不明ですが、江戸時代の公家社会でも本能寺の変は大変注目されていたことがわかります。
※陽明文庫:旧公爵近衞家に長年にわたって伝襲した、大量の古文書および古典籍、古美術工芸品などを一括して保存管理する歴史資料館。