【豊臣兄弟!】光秀が最後まで頼りにした武将・筒井順慶とは?「洞ヶ峠を決め込む」の由来になった波乱の生涯 (6/8ページ)

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その後は天正5年(1577)の紀州征伐や信貴山城の戦い、天正7年(1579)の有岡城の戦いと言った主要な戦いに参加しています。

特に信貴山城の戦いでは土地に詳しいためか先鋒を任されています。また、順慶の家臣・森好久率いる鉄砲衆200人が、仕官先の久秀に対して反乱を起こしたことが信貴山城落城に繋がりました。

順慶はこの戦いで死亡した久秀の遺体を達磨寺で丁重に葬りました。長年いがみ合った宿敵だったからこそ、順慶なりの敬意をもって葬ったと考えられます。

約20年にわたる2人の因縁は久秀の死をもって終わりを迎え、順慶が大和国(現在の奈良県)を平定しました。

日和見順慶はこうして生まれた

豊臣秀吉と明智光秀/Wikipediaより

そして、天正10年(1582)6月2日に起こった本能寺の変後、順慶は明智光秀と豊臣秀吉どちらにもつかずに静観を貫きます。そんな中、光秀は洞ヶ峠に布陣して順慶の動向をうかがいました。

光秀にとって順慶は織田家臣になる際に仲介した上に、どちらも教養人だったので親しい間柄でした。そのため、光秀側に味方すると考えていたのでしょう。

しかし、光秀の期待は大きく外れ、順慶が動かないまま6月13日の山崎の戦いを迎え、討ち死にしました。

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