【豊臣兄弟!】光秀が最後まで頼りにした武将・筒井順慶とは?「洞ヶ峠を決め込む」の由来になった波乱の生涯 (7/8ページ)
この時、順慶が洞ヶ峠に布陣後、日和見をしたことから「洞ヶ峠を決め込む」のことわざが生まれたとされていますが、上記の通り光秀が布陣しています。順慶が布陣したことは『増補筒井家記』に記載がありますが、史料自体の信ぴょう性が低く、誤りの可能性が高いです。
ただ順慶が日和見だったことは確かで、戦いが終わった同年6月14日に秀吉の味方に付きました。
この遅参に対して「道理に反すること」と叱責を受けますが、お咎めはなく以後秀吉の家臣となります。
病を押して戦った末に…天正12年(1584)に起こった小牧・長久手の戦いでは、病でありながら出陣しました。順慶は戦いの前に胃痛を訴え、寝込んでいました。それでも秀吉は出陣を促したことから、順慶の病状を顧みないくらい関係性は希薄だったことがうかがえます。
無理をして戦ったことで胃痛が悪化し、回復することなく同年8月に36歳で病死しました。
跡継ぎの日和見によって領地を失う
順慶の死後、養子の定次が跡継ぎとなりますが、重臣だった島左近と折り合いがつかず、手放してしまいます。関ヶ原の戦い後には徳川派と豊臣派で内部分裂が起こり、収拾がつかない事態になってしまいます。
この前に豊臣政権下で移封の地となっていた伊賀国の支配を江戸幕府から任命され、国持大名となりました。