【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介 (10/12ページ)
織田信長の娘「三の丸殿」は、伏見城三の丸に住居を与えられていたことから、秀吉の側室となったのは伏見城築城時期である文禄年間(1592年から1596年)と考えられています。
織田家と縁のある娘を側室としたのは秀吉としては、織田信包の娘・姫路殿、市の娘・淀殿に続いて三人目。側室の序列としては、最も高い待遇を受けていたと考えられています。そのことからも、信長に対しての秀吉の気遣いが感じられるのではないでしょうか。
三の丸殿は秀吉没後は、摂関家の二条昭実と再婚、1603年(慶長8年)に死去しました。
朝鮮出兵の頃に迎えた広沢局そして、秀吉が晩年に側室としたのが「広沢局」です。彼女は、肥前垣添城主・名護屋経勝の娘で名を広子といいました。
朝鮮出兵のため名護屋城に在陣していた秀吉に見染められ、1593年(文禄2年)の夏ごろに側室になったと考えられます。明との講和が決裂し、再び朝鮮出兵が起きた1598年(慶長3年)にも広沢局は、名護屋城山里丸に住んでいたとされますが、同年秀吉が没すると出家したとされます。