【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介 (7/12ページ)
そして側室でありながら、寧々と並ぶ正室待遇であったのが茶々の名で知られる「淀殿」です。浅井長政(中島歩)と信長の妹・市(宮﨑あおい)の長女として生まれるも、長政の滅亡、市の再婚先の柴田勝家の滅亡という悲劇を経て、1586年(天正14年)10月頃に秀吉の側室となりました。
この時期は「摩阿姫」と同じで、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにより、秀吉が信長の後継者としての地位を固めたことと関係があるようです。
摩阿姫は古くからの盟友の娘であり、そして淀殿は旧主・信長の血を引く姪でした。もちろんそのあたりは秀吉も重々承知していたのでしょう、淀殿のために城(淀城)を築き、住まわせています。
そして淀殿は、1589年(天正17年)に同城で鶴松を出産しました。しかし鶴松はわずか3歳で夭折してしまいます。それでも淀殿は1592年(天正20年)に第二子・秀頼を出産します。