【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介 (5/12ページ)
この後間もなく側室となる「姫路殿」同様に、長浜から遠く離れた播磨において、寧々の目が届かないのをいいことに、秀吉は二人の側室を囲っていたのです。
本能寺の変前後に側室とした「姫路殿」と「京極竜子」秀吉は主家である織田家から、確認できるだけでも二人の女性を側室にしています。その一人が信長の弟である織田信包の娘「姫路殿」で、秀吉は彼女を深く寵愛したといわれます。
1577年(天正5年)の播磨侵攻の頃に、秀吉の側室として信包が差し出したとか。しかしながら信長が存命中に、織田家一門衆の娘を養女ならまだしも側室として囲うのは身分的にも無理があり、本能寺の変後に側室とし、当時秀吉が長浜とともに拠点とした姫路城に置いていたのではないかと推測されます。
戦国時代きっての美女とされる「京極竜子」は、若狭守護の武田元明に嫁ぎ、二男一女をもうけていました。彼女の父は京極高吉、母は浅井久政の娘で、浅井長政は叔父にあたります。