【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介 (6/12ページ)
本能寺の変が起きると、元明は明智光秀に味方したため山崎の合戦後、秀吉に自害を命じられてしまいます。そして、捕らえられた竜子は秀吉の側室となったのです。
竜子はその出自の高さと美貌で、秀吉から深い寵愛を受けます。秀吉は小田原征伐はもとより、朝鮮出兵の際にも名護屋城へ竜子を伴いました。
秀吉の死後は、兄の京極高次の住む大津城に身を寄せるも、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣の後は、六条河原で処刑された秀頼の嫡男・国松の遺体を引き取り、京都の誓願寺に埋葬したことでも知られます。1634年(寛永11年)9月に、京都西洞院の邸で死去しました。
関白の権威を彩った「摩阿姫」と「淀殿」若い頃から秀吉と親しく、天下人となってからは最も信頼された存在であった前田利家(大東駿介)の三女が加賀殿とも称された「摩阿姫」です。彼女が秀吉の側室となったのは、1586年(天正14年)頃と考えられています。
1594年(文禄3年)、秀吉は完成した伏見城へ居を移します。同城は関白職を甥の秀次に譲った秀吉が、隠居城として2年前から築いていた城でした。
しかし、1593年(文禄2年)、淀殿との間に秀頼が誕生したことで、京都聚楽第の秀次と伏見城の秀吉という二重権力ともいえる状況が生まれ、諸大名たちは聚楽第同様に伏見城の城下にも大名屋敷を構えるようになりました。
利家が伏見城下に屋敷を構えると、摩阿姫はそこに預けられます。父の屋敷に住むことを許された側室は彼女しかいないため、そこには秀吉と利家の主従関係を越えた特別な間柄が推察されるのです。
また「摩阿姫」は秀吉の存命中に側室を辞し、公卿の万里小路充房の側室となって男子を産んでいます。のちに充房とは離縁し、金沢に戻ると1605年(慶長10年)10月に同地で死去しました。