【豊臣兄弟!】秀吉vs勝家「賤ヶ岳の戦い」お市を自刃に追い込んだ1年におよぶ調略合戦の全貌 (5/7ページ)
岐阜城を奪還されてしまった秀吉は急きょ美濃へ進軍しますが、揖斐川の氾濫によって足止めを食らい、大垣城へ入りました。
この隙をついて佐久間盛政が中川清秀の守る大岩山砦を襲撃し、清秀が討ち死にしてしまいます。
4月20日に清秀の討ち死にを知った秀吉は、大急ぎで大垣城から近江国木ノ本へ兵を返しました。
これが世に言う「美濃大返し」、秀吉は強行軍の末に十三里(約52キロ)を二刻半(約5時間)で走破する荒技を見せています。
よもやこんなに早く秀吉が戻ってくるとは夢にも思わなかった佐久間盛政の陣営は大混乱に陥りました。
かくして4月21日に決戦が繰り広げられますが、勝家に与していた前田利家が、なぜか兵を引き揚げてしまったのです。
その理由には諸説あり、かねて秀吉の調略を受けていたとも言われます。しかし前田勢の撤退時には羽柴勢の追撃を受けており、相応の犠牲を出していることから、一概に断定は出来ません。
前田利家の戦線離脱によって柴田勢の士気は大いに下がり、決戦の軍配は秀吉に上がりました。
天正11年(1583年)ついに決着!