【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆” (2/10ページ)
そして、京都聚楽第を居城とした秀次は二代目武家摂関として、秀吉とは独立した形で国内統治機構の整備を進めていくのです。
その後、秀吉の命により日本軍が次々と渡海を開始し文禄の役が本格化するとともに、内政面において関白秀次は独自の政治基盤を構築していくことになりました。
同年末に元号が文禄に改元。これは、秀吉から秀次への政権継承を内外に示す意味合いがあったとも考えられています。
そのようななか、1593年(文禄2年)にはいると、名護屋城本丸に滞在する秀吉のもとに数々の報告がもたらされました。
秀吉の耳に届いたのは、「関白秀次様に不穏な動きあり」というものでした。
そして、その動きが1595年(文禄4年)6月の秀次切腹とその一族の悲劇に繋がっていくと考えられるのです。