【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆” (4/10ページ)
生れた男子を見て、秀吉が驚喜したことは想像に難くありません。そして定説では、この子に関白の座を継がせたいと考えた秀吉は、早々に秀次に統治権を継承したことを悔やみ、それが秀次自害に繋がっていったとされています。
もちろん、秀頼に対する秀吉の溺愛ぶりは間違いないでしょう。しかしだからと言ってこの説には、やや無理があるのではないでしょうか。
それはこの当時、秀頼の後見役として安心して任せることができるのは、豊臣(羽柴)一族ではもはや秀次ただ一人と言っても過言でなかったからです。
秀吉が最も信頼した弟の大和大納言秀長(仲野太賀)は、1591年(天正19年)にこの世を去っていました。
50代も後半に入り晩年を迎えていた秀吉が、秀頼を大切に思うのであればあるほど、秀次の存在は大きかったのです。
このことを裏付ける史料として、山科言経の『言経卿記』があります。それによると秀頼誕生直後には、全国を五つの区域に分け、そのうち四つを秀次、一つを秀頼に任せるという構想を秀吉は抱いていたとか。
しかし、そのほかの史料からは構想の変化もうかがえます。『駒井日記』には、秀吉は前田利家夫妻を仲人として、秀頼と秀次の娘を婚約させ最初は秀次、そして秀頼が成長した暁には秀次から天下を受け継がせるとしたとされるからです。
このことから、秀吉が秀頼を後継者にしたいという明確な意図が読みとれるのです。
豊臣家に生まれた二つの権力の対立ただそれでも、1594年(文禄3年)の秀吉と秀次の関係は平穏に流れます。