【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆” (5/10ページ)
しかし裏では、秀次に対しての暗雲が徐々に立ち込めていたと考えられるのです。
それは絶対的権力者である豊臣家に、二人の後継者ができたことによる悲劇でした。まさに、両雄並び立たずという状況が否応なしに起こってしまったのです。
つまり、秀吉と秀頼を中心とする勢力。言い換えれば、秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が急激に台頭したこと。この勢力に対して、現関白である秀次の統治機構を担う勢力の対立が起き、それが表面化していくことで、やがて秀吉が秀次排除の意思へと傾いていったとも考えられるのです。
そして、1595年(文禄4年)6月、秀次に謀反の疑いが持ちあがり、秀次は高野山で切腹、その一族と側近たちはことごとく粛清されるいう憂き目に遭ったのでした。