【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆” (8/10ページ)
ではなぜ、秀次は聚楽第に外堀を設けたのでしょうか。実は聚楽第は、本丸・二の丸・馬出しを備えながらも、広大な外堀を持たず、純粋な軍事拠点とは言いがたい構造でした。
それを秀次が新たに外堀を造ることで、聚楽第を「単なる政庁」から「一大軍事拠点」へと変えようとしたと考えられるのです。
聚楽第の遺構が語る秀次事件の真相秀吉の留守中に、秀次が聚楽第を戦闘可能な城郭に改修した真意は何であったのでしょうか。
それは、秀吉が行う朝鮮出兵への断固たる反対行動であったのではないかとみられます。
後世において、秀吉の唐入りに対する評価は厳しいものがあります。日本中の大名を疲弊させ、結果的に豊臣家の将来に対する芽も摘んでしまいました。
ただ繰り返しになりますが、太閤としての秀吉の権力は絶大でした。だからこのような状況下でも、表立って反戦を唱える者はいなかったのです。しかし、多くの大名の間では秀吉に対する不満が膨らんでいったことは間違いないないでしょう。
もとより朝鮮出兵に距離を置いていたとされる秀次とその側近たち。彼らに対し、唐入りに不満を持つ大名たちの期待が集まったとしても、決して不自然ではなかったでしょう。
朝鮮での戦況如何では、一気に反秀吉勢力の台頭も考えられると踏んだ秀次。聚楽第の大改修は、その備えであったのかもしれません。
しかし秀次の行動は、ことごとく秀吉の耳に入ります。ただその時点では、聚楽第の改修は中途半端な状況であり、秀次としても何とでもいいわけができたのではないでしょうか。